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僕は『できそこないの牧師』みたいだ [カフェトーク]

(2009年2月18日(水)の活動日記その2)

● 僕は『できそこないの牧師』みたいだ

 今夜のカフェトークは、本当にすさまじかったです...。

 それぞれの想いや痛みや絶望や悲しみをこころに秘めた
 いろいろな立場の方々がいらしてくれました。

 その1つずつの圧倒的な想いを見つめながら
 僕はただ耳を傾け、その痛みに寄り添うことしかできませんでした。

 参加人数が多くなりすぎてしまい、
 テーブル席だけでは間に合わず
 カウンター席にも座っていただく状況になってしまいました。

 参加して下さったみなさま、ご不便をおかけしてごめんなさい。

 でも、事前申し込みを一切行なわないので
 時には今夜みたいに会場がいっぱいになってしまう日もあるのです。
 本当にごめんなさいね。

 それにしても...。

 フジノは政治家なのですが、
 カフェトークの場にいる時は

 「政治家として求められているのではない」

 と感じることがしばしばあります。

 その役割をあえて例えるならば、
 『救済を与えることができる牧師のような役割』でしょうか...。

 決して、精神保健福祉士としてのフジノでもなく
 認定心理士としてのフジノでもありません。

 けれども、フジノ自身は『牧師』ではありません。

 圧倒的な絶望や痛みを抱えていらっしゃる方々を前に
 『同じ立場の1人』として
 僕はただ立ち尽くしているだけなのです。

 どうか、カフェトークに参加される方々は
 その事実をどうかご理解くださいね。

 僕もまた、あなたと同じように
 こころに深い絶望の闇を抱えながら迷いつつ歩いているのです。

 僕には希望に満ちた光を照らすことは
 決してできないのです。

 もちろん政治家としてフジノは、
 希望を持てる未来を
 『政策』によって制度的に生み出すことはできます。

 けれども、人々の暮らしやこころの奥底に届くような
 強い輝きを持った希望の光を
 牧師さんのように照らすことは決してできません。

 そんなフジノの限界をどうか知っていて下さい。

 たくさんの限界と欠点を抱えながらも
 フジノは毎週必ずカフェトークという『場』を保つことだけは
 絶対に続けたいと思います。


● セーフティネットとしてのカフェトーク

 今日は、某新聞社の東京本社の方が1名、
 インターネットメディアの方が1名、参加して下さいました。

 こうして、セーフティネットとしてのカフェトークを
 じかに見ていただける機会になったのかなあと思います。

 人々のこころの絶望の深さを僕は見つめながら
 そこに僕も自分の姿を見てしまいます。

 今夜、22時にカフェトークが終わった後も
 参加者の方々が残って1人ずつ、フジノと語る為に待っていて
 最終的に解散したのは23時30分を過ぎていました。

 記者の方が、言いました。

 「社会のあらゆるセーフティネットが壊れているから
  カフェトークという場がセーフティネットになっているのでしょうね」

 まさに、フジノも同じように感じます。

 カフェトークの役割は、決して『救済』ではありません。

 もしもそれが成されるとするならば、
 あくまでも政治家として政策を通じて『結果的』に成されることです。

 それでもカフェトークが『場』として求められ続けるならば
 ずうっと続けていこうと決心しました。

 どなたでも、いつでも、気軽に遊びに来てくださいね。

 決して大きな期待はなさらずに
 ふらりとのんびりとお茶を飲みに来て下さい。

 ではでは。

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