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変わらずに、まっすぐでいた人 [カフェトーク]

(2008年10月30日(木)の活動日記)

● 変わらずに、まっすぐでいた人

 毎回のようにカフェトークに来てくれていた
 Aさんが亡くなった。

 カフェトークにもよくバイクで来ていたAさんは
 交通事故で、自動車によって命を奪われてしまった。

 昨夜のカフェトークが始まる直前に
 知りあいが連絡をくれた。

 「今日、午前中にご葬儀だったんですけど
  フジノさんはお忙しいと思ってあえてお伝えしませんでしたよ」

 そんな!

 おれは午前中、たまたま仕事を入れてなかったのに...。

 人の生き死にに関わることに比べて
 キャンセルできないほど大切な仕事なんて無いのに...。

 永遠のお別れをするチャンスさえ奪われたまま、
 こうして痛みとともに思い出が残るのは、とてもつらいことだ。

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 1日経って気持ちがおさまらなくて、
 今日の夕方になって

 Aさんが通っていた
 よこすか障害者地域活動支援センターアメグストに立ち寄って
 改めて、交通事故がウワサでは無いことを確認した。

 みなさんでAさんが亡くなったことを悼んで
 寄せ書きをしていた色紙に、僕も、記させていただいた。

 ご葬儀に出ることができなかったこと痛みは
 寄せ書きに記すことで少しだけ癒えた気がした。

 アメグストの方々とAさんのことを少し、お話した。

 僕は、カフェトークでのAさんの思い出を語り、
 アメグストの方はアメグストでのAさんの思い出を語ってくれた。

 亡くなった方のことをお互いに語り合うことは
 本当に大切な、喪の作業だ。

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 僕にとってAさんは、まっすぐすぎるくらいにまっすぐな人だった。

 カフェトークでの
 Aさんの帰りがけの口グセは

 「フジノさん、そのまま純粋でいてくださいね!
  変わらずに、まっすぐでいてくださいね!」

 強い口調でこれを言われるたびに
 僕は、Aさんのその言葉を自らの肝に銘じつつも

 これだけくりかえしこのフレーズが発せられる理由、
 つまり、Aさんがこれまでの人生で体験してきた様々なことを
 僕なりに理解しようといつも想った。

 他人にまっすぐであってほしい、と、ある人が望む理由は
 その人が過去に他人から裏切られたり
 つらい目に遭わされたであろうことは
 誰でも想像がつくはずだ。

 そうしたことに想いをはせるたびに僕は、

 Aさんが想ってくれるほどに僕は純粋では無いし
 年を重ねたなりに汚れてしまった人生を送っているけれども
 それでも、できるかぎりの努力をしよう、といつも想った。


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 カフェトークには、いろいろな方が来る。
 お互いに自分のことを自己紹介する必要も何にも無い。

 でも、Aさんは話してくれた。
 Aさんは、かつて重い精神障がいがあった。

 誤解を恐れずに書くならば
 重い精神障がいがあった方が長年の闘病の末に、
 現在ではお元気になって働いていたり楽しく暮らしている人が
 僕は、けっこう好きだ。

 語りだすと止まらない時もありつつも
 カフェトークの場では寡黙に
 他の参加者の話を聴いていることが多いAさんだった。

 病気のことだって、自らまわりに語らなければ、
 誰もそんなことは気づかなかったと思う。

 でも、Aさんはウソをつかない。
 そして、正義感の強い人だった。

 ある日、他の参加者の方から
 「Aさんが仕事をクビになりそうだ」と聞かされた。

 上司に対して激しくつめよってしまうらしい。

 「どうしてですか?」と尋ねると

 「上司が、雇われている知的障がいのある人のことを
  からかったり厳しい言い方をするんだ。
  Aさんは、それを許せないんだ」

 「へえ...それなら上司が悪いんじゃないですか」

 「でも、会社では上司ともうまくやっていかないと
  Aさんは勤まらないよ」

 心配は的中して、
 Aさんは会社をクビになった。

 でも僕は、Aさんが正しいと感じた。
 障がいのある人を邪険に扱うようなひどい会社なんて。

 きっとAさんに合ったもっと良い会社が
 必ずその良さを理解して雇ってくれるはず。

 そんなことを思った。


● 実存とは何か

 Aさんは、敬虔なクリスチャンだった。

 かたや僕は、何度も書いてきたように
 ずうっとキリスト教会に通ってきたにも関わらず
 クリスチャンになることができなかった人間だ。

 僕は、Aさんの信仰心を素晴らしいと感じた。

 階段の上に礼拝堂がある教会に
 車椅子の方が通っているのを、
 Aさんが毎回、その階段をおぶって登ってあげていると
 人伝えに聴いたことがある。

 このエピソードにしても、
 知的障がいのある人をいじめる上司につめよってしまう話にしても、
 Aさんらしい、まっすぐで純粋な行動だと感じていた。

 人には、いろいろな過去がある。

 僕は、かつて恋人と心中しようと決めた夜に教会の門を叩いて、
 やがて神では無く、改めて人を信じて、教会をやめた。

 心理学や、精神医学や、精神保健福祉や、
 そうした科学の力も大きかったけれど

 何よりも、あきらめたくないと強く想い続ける力、
 『人間の強さ』を僕は信じたのだ。

 それこそ、Aさんのような『人』の強さや優しさを
 見えない『神』の存在よりもリアルに僕は信じたのだ。

 他人をおぶって階段をあがることは僕にはできない。
 そのこと1つだけをとっても、僕は神よりも人の愛を信じるのだ。

 けれども、逆説的だけれども
 そんな力をAさんに与えているのも『神』への信仰なのだ。

 だから、僕は神は信じられないけれども
 信仰心というものはとても尊くて、素晴らしいものだと想う。

 Aさんは、それを体現していたと思う。

 ただ、僕が神を捨てた理由は
 何故、Aさんの命を奪わねばならなかったのか、ということに尽きる。

 これだけ純粋でまっすぐに生きた人を
 何故、多くの人々に愛されている人を

 こんなにも早く、あっけなく、そして交通事故のむごい死に方で
 僕たちから永遠に奪わねばならなかったのか。

 10代の頃から、何千回この問いを投げかけたか分からない。
 神よ、あなたが存在するならば、何故こんなひどいことをするのか。
 何故、善良な人ほど早く亡くなっていくのか。
 何故、何故、何故...。

 そして、いつもあなたは『答えない』。

 だから、僕はそんな『神』を信じない。

 僕は、無慈悲なこの世界の現実をただ受け入れて、
 わずか150回のカフェトークの歴史で
 すでに参加者が3人も亡くなってしまったことを忘れずに居つづける。

 純粋でまっすぐであってほしいという言葉を
 僕に課せられた遺言として、
 絶対に忘れずに生きつづける。

 これが、『人』としての僕の答えだ。

 けれども、本当に
 とても悲しい。

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